第二次世界大戦が終わり、
農地改革が行われたことによって、
山梨では果樹畑が増えていきました。
分家にあたる向山家初代の金重も、畑を開墾するところから始め、1日ではとても割れないような巨大な石を仲間と砕き、少しずつ少しずつ耕作できる面積を確保して
いきました。
今なら重機を使い、それでも数ヶ月はかかる作業を、
全て手作業で進めていきました。
ゴールは見えていたのか。
それともただ目の前を開拓することに
集中していたのか。
自らが植えた桃の苗が成長し、初めて実をつけたとき、祖父はいったいどんな気持ちだったのでしょう。
確かなのは、今ここで大きく甘い桃がたわわに実り続けているということ。
今、果樹栽培が続けられているのは、70年前、
土地を切り拓いてくれた礎があるからに、違いありません。
当時は、農業が主産業である地域のため、
子どもたちも家業を手伝うのは当然で、収穫期が近づくと学校は休みになりました。
今は紙製の化粧箱ですが、木製の箱を一箱ずつ手作りしていたそうです。
「一宮の桃」となった祖父の成果は、
父によりさらに積み上げられ、
私たちの代にも受け継がれています。
これまで受け継いできた豊かな農地とそこで収穫できる
おいしい果樹を後世に残していくことが、
今のアミナチュールの想いです。